2015年 5月18日投稿
台風一過、 上野 大雄寺 大楠
直前まで迷ったあげく決行した 片道1,700円の高速バス 日帰り東京行き
朝6時半 東京駅に着き
妹と待ち合わせ、一緒に墓参・石碑をめぐり
鈴木厚さん 日本橋高島屋での 三人展
西秀昭さんのブランド CORONA展示会と
充実させた
東京駅バス停前 630AM、不眠
前夜連絡した妹と 7時に上野で待ち合わせ 朝食を馳走に成り、
仕事の時間まで 一緒に上野・寛永寺へ了翁禅師塔碑を訪ねる
神武天皇
上野公園
寛永寺 山内の了翁禅師像、塔碑を拝見
上野戦争碑記 寛永寺山内
虫塚 昆虫図を描いた画家が 写生で御世話になった虫の慰霊に建てた塚
尾形乾山墓碑・乾山深省蹟
今回は 了翁禅師塔碑以外 下調べ無しでの寛永寺訪問でしたが
私が 帰国直後にお邪魔した
仙台堤焼(つつみやき) 針生乾馬さんの面影が 頭に浮かび、よろこばしい発見でした
※ 現在、唯一の 堤焼窯「 堤焼 乾馬窯 」 針生乾馬さんの「乾」は
仙台に招かれた江戸の陶工・三浦乾也(6代・尾形乾山)から
" 乾馬 " の陶号を授かったのがはじまりと お聞きしていた。
仙台堤焼は、この時書き写すことを許された秘伝書
『乾山秘書』 をもとにしながら
現在も、仙台の土と釉薬を使い 風土に根ざした焼きものを 作り続けられております
了翁禅師塔碑
了翁道覚禅師
1630年 現・岩手県湯沢市の貧農に生まれ
幼くして母親を亡くし、里親とも死別
11歳で 寺に預けられ、12歳で得度剃髪
当時 寂れてしまっていた 平泉 中尊寺の仏典蔵教が散逸しているのを知り
近隣を探し回り、今日
国宝の一部として知られる(
紺紙金銀交書大般若経)6巻を返納し、
さらにこれ以後、
散逸した経典や群書の蒐集と 一切経蔵建立の運動に一生を捧げることを誓う
18歳の折、松島瑞巌寺に移り、雲居希膺禅師より五戒を授戒
24歳の折、明の高僧 隠元が来日するを知り 長崎へ訪ね、万福寺開山に尽力
78歳で亡くなる その年まで 断食修業をするなど
一生厳しい修業を自分に課し、努めながら
錦袋円という傷薬を開発、親族に販売させ
その収益をもって
寛永寺領内に、日本初の公共図書館とも言うべき 学問所を開き
貧しくも意欲のある者には 食・住の世話もしながら 学問を奨励
また、度重なる大火事においては、孤児をひきとり、里親探しや 供養に努め
町や寺院の再建から蔵経の寄付補充、灌漑事業にまで 錦袋円の収益を使い尽し
江戸時代前期において、
いわゆる教育文化、社会福祉、公共事業など 各種の社会事業に貢献した
東北ゆかりの 黄檗宗僧侶であります
修業跡の指先
大雄寺 鉄門
大楠
泥舟先生 墓
日本橋 高島屋 鈴木厚さん展示会
これ 欲しかったのですが、判断ミスしたか。。少し後悔
鈴木厚さんと
鈴木厚さん ホームページ
http://ginyoo.web.fc2.com/toujiki/Home.html
電車を乗り継ぎ CORONAの事務所へ
代々木駅前 エンパイアー
秋・冬物のサンプルを見せて頂きました、全部欲しい
アメリカでも、震災直後も、そして現在でも 大変お世話に成っている 西秀昭さんと
CORONA ホームページ ブログ、オンラインストアもあります
https://www.baku-corona.com/
さすたけの 君が御影と仰ぎ見る 楠の大樹の 高くもあるかな 泥舟 印
” 君が御影と仰ぎ見る 楠の大樹 ” とは
楠正成公に 掛けていると 思われるのですが
泥舟先生、病中 亡くなる二年前、
” 墓碑ノ表裏 左ノ図の如クスベシ、近世ノ奢風ニ流レテ 華美ナルコトナカレ” と、
墓石絵入りの手紙を 子息 道太郎に宛てておりますので
墓地を指定した頃、最晩年の作かと
思い巡らせてみたり
マクリなので いつか善い軸装が出来ればと
2015年 5月18日投稿