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人取り橋 こころ太く 真なるヤツ、福島県本宮市、人取り橋古戦場へ

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人取り橋 こころ太く 真なるヤツ、福島県本宮市、人取り橋古戦場へ

2014年 6月25日投稿




天気が良いので

福島県本宮市、人取り橋古戦場を訪れた



















御存知 ここ一帯は、

北関東、みなみ東北連合軍3万と、伊達政宗公軍勢7千とが戦い


政宗公 みずからの鎧にも、矢1本、鉄砲玉3発以上の命中を受けるという 大激戦の地





良く鍛えられた 甲冑が

弓矢1本、鉄砲玉3発の命中を 弾きとばし

また、

伊達成実、鬼庭左月、片倉景綱、伊場野遠江ら 家臣団の奮闘により


政宗公、九死に一生を得たのであります




歴史に ” もしも ” は、オモシロくないのですが



もし、この戦で



当時、御年19歳の 政宗公


鉄砲玉貫通し、討ち死になさって おられれば





今の 仙台市は


存在しないのであります





小姓 木村宇右衛門の 覚書中

政宗公は、この戦闘で着用した鎧を秘蔵し


遷化後、親族、家臣が 政宗公の墓所に一緒に入れた 

というくだりを 思い浮かべ



この地に立ち、

ことばに言い表わせない感慨に ふけるのであります










人取り橋にて 政宗公、


敵を深追いしすぎ 逆に敵に包囲されてしまったところ、



片倉小十郎駆けつけ


包囲する敵に向かい 大音声で声を掛ける



「 やあやあ 殊勝なり、政宗ここにて後見致す 」と、


政宗をよそおい、

敵兵を一手に引き付け、政宗の窮地を救ったという






鬼庭左月、 伊場野遠江

共に 当時 齢73歳



老齢ゆえ 重い鎧を嫌い


左月は兜の代わりに 黄色い綿帽子1つ、


遠江は 鉢巻1本締めるのみの 軽装で


ともに シンガリをつとめ 討ち死にし

政宗、成実を救った

(殿=しんがり=引き揚げる軍勢の最後尾で敵の追撃隊と戦い、前方の軍勢を安全に逃す役)




左月は、人取り橋から敵中に取って返し


鎧を着けぬ軽装で 縦横無尽に敵中を駆け 戦い

左月勢 敵の首級200余りを上げる健闘




人取り橋といえば、この 鬼庭左月の終焉は 存じている方も多いと思われますが



私は、

げろう(下郎)、 政宗公 御馬のクチ取り 「 九八 」が

川の中、政宗公の馬側で 胸を鉄砲にて撃たれ 倒れかけた際



馬上の政宗公 瞬時に その髪の毛をつかみ、支え、


ワシにもたれかかり 岸まで上がれと 声を掛けましたが



九八は 両手を合わせ



” 深手ですので 捨ておきください


撃たれますので 早く移動して下さい ” と 嘆願する状景が


頭に浮かび



涙を禁じえないのであります






政宗公をして、


” 下郎に珍しき 目の利きたる、こころ太く 真なるヤツ ” と言わしめた九八は



400年後の現代においても


私の心の中に 生きているのであります







こころ太く ” 真なる奴 ” と 言われる人間
 




晩年 政宗公が語る話を 筆記記録した

伊達家資料の一級品である 木村宇右衛門覚書


以下に、人取り橋合戦の章、少し現代の漢字をあて 素人仕事ですが

難しい言葉は現代語に少し変えるなどし 読み易くしてみました









政宗公、ある時の御話には、


仙道、(現 福島県) 本宮(もとみや) 一戦の時、


何としたる事にてやありけん


味方 ことごとく 敗軍して


茂庭左月などをはじめ 歴々の者ども 討ち死にし



先手 町場へ つぼみ入ついて出候へは


追い込まれ 追い込まれ

木戸を三度まで取られ、



東の手は、ことのほか敗軍のよし 告げ来るによって

西の手を 早々あけさせ

旗本を詰め 小旗を差し替え、

手まわり 四、五十 めし連れ 乗り入りみれば



敵、ことのほか 気負いかかって

川の端につき、町頭へ込み入り候間


成実 (伊達しげざね) の手を

横筋違いに 町頭より西南にあたる 地蔵堂の山さきへ くり出し


先衆に 旗本を入れかえ

町うしろの田道をすくに人取り橋をしきり


あとさきより おっとり つつみ取れと下知しければ

成実 つめ合い川端にて 一戦始まる



こなたは、人取り橋へ 敵を追いさげ

討ちつ討たれつ 入り乱れたる 大合戦なり


川上、川下にて 敵、味方 討たれ、流るる血は くれないのごとし


人取り橋の坂 幾度となく 乗りあげ、乗りおろしに

馬、白汗になり 息荒く、足元も おぼつかなくなり候間

川へ乗り入り 馬の口を洗わせ 水をこうところに


右脇に立ちたる 馬の口取り、九八という

下郎に珍しき 目の利きたる、こころ太く 真なるヤツ、


乳の下を 二つ玉にて射られ

持ちたるヒシャクを 左脇に立ちたる者に差し出し

” これ持て ” と言いて よろめくを、


馬の上より たぶさをとらえて

手負いたるか九八、ここは川なり、こなたへもたれかかりて 川より上がれ

敵は 川より向かいへ追い崩し、味方続きたるぞと 言葉を掛け候へば


九八、両手を合わせ、

深手にて ご座そうろう、捨てさせたもうて、ここに時刻をうつさせたまうな

と言いながら 川へ伏す

ふびんなる 次第なり



しかるところへ、成実徒者 二、三十人

馬の前後しとろにたて 一文字川へ乗り込み


” 御運尽きたまいたるか、大将の馬の立てどころ ” と言いながら


われら乗りたる馬の腹を 団扇の柄にて したたか打って 川より追い上ぐる



一方を頼む人には あっぱれ あるまじき大将かなと 心の内にたのもしく思い

馬を助けんために あやまって候と言いければ

物な仰られそ、矢、鉄砲は 篠を束ねて降るごとく

ながれ矢にあいたまうな

仕掛けたる いくさ場を 醒まして参候とて


両方へ馬を乗りわかれ

人取り橋向かいへ 敵を追い散らし、勝どきを とりおこないたると のたまう


このとき召されたる鎧、のちに見れば

中立挙げの御すね当てに 玉傷一ヶ所、

鞍の前輪をかすり 御腹に一ヶ所、

御肩に玉そへりたる跡 一ヶ所、

御甲の左脇小筋二間 擦り矢に当たり、


後まで さね良き御武具なりとて (さね=鎧を構成する革、又は鉄製の細長い小板)

秘蔵なされ候


古雪下彦七が 鍛えたるなり

御他界後 御廟所に入也














鬼庭左月 墓石














 

人取り橋の戦い ウィキペディア




















摺り上げ原



















摺り上げ原









2014年 6月25日投稿





































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プロフィール

HN:
渡邊秀樹
年齢:
58
性別:
男性
誕生日:
1966/01/16
自己紹介:
「活人剣」
松島瑞巌寺 松原盤龍老師 書

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